Masato M. Lyagushkin
~ ロシア連邦一人旅顛末記 ~ (亡き父の足跡を訪ねて)
著者:志水 通男(丹波・タンボフ交流協会 理事、ロシア・タンボフ日本人抑留者遺族) 平成26(2014)年9月2日(火)から8日(月)までの一週間、思いもよらないいきさつからロシアへ行った。ロシアは英語圏ではなく、また一人旅であったので、とっても疲れたが、結果的には、思い出深い有意義な旅行となった。
1 旅行に至った経緯 【平成26年3月31日】 (兵庫県庁恩給援護班からの電話) 私の携帯電話に突然、兵庫県生活支援課の恩給援護班の方から電話がかかってきました。 父は2年前に91歳で亡くなり、母はこの3月1日に86歳で亡くなりましたので、てっきり父の軍人恩給の打ち切りの話だと思いました。しかし係員の 「ロシアの女性から、68年前にあなたのお父さんから貰った写真を本人か親族に返したい、と外務省・厚生労働省を通じて連絡がありました。 写真のコピーを送るので確認してください。」 との説明にびっくりしました。 ソ連捕虜抑留生活の話は、子供の頃、父からよく聞かされていましたが、ロシア女性との交流については初耳だったからです。 なお、父と特定できたのは写真の裏に父が自筆のロシア語で名前を書いており、厚生労働省で保存している引き揚げ船で父が書いた身上申告書の記録で分かったそうです。 (父の軍隊経歴) 父は大正9年(1920年)12月宍粟郡一宮町で生まれ、地元の国民学校(高等小学校)を卒業して、昭和14年(1939年)12月の19歳のとき、志願兵で鳥取県の陸軍歩兵部隊に入隊し半年後に満州へ行きました。そして5年後の昭和20年(1945年)8月の24歳で終戦を迎え、2年間のソ連抑留生活(マルシャンスク、タンボフ)を送り、昭和22年(1947年)10月の26歳のときに帰国しました。なお最終階級は下士官の曹長でした。 【4月6日】





(ホテル到着)
ホテル着は20:30を過ぎましたが、ロシアは白夜で午後8時を過ぎても空は明るかったです。ホテルは昔オリンピックの時に建てたもので、29階の見晴らしの良いきれいな部屋でした。ツインのベッドで、浴槽はなくシャワーだけでしたが、湯もすぐに出てタオルも石鹸も用意されていました。鍵はカードで、1階のエレベーター前にはスタッフが立って宿泊者をチェックしており、防犯警備面はかっちりしている印象を受けました。
【9月3日】
(コーヒーのおじさん)
朝9時にホテル一階にある喫茶ラウンジでパンとビール(笑)を注文しました。
しばらくすると、おじさんが私に近寄り何か話かけてきたので適当に挨拶すると、彼はウエイターにコーヒーを注文していましたが、請求書が私にきました。どうもおじさんはウエイターに「外人が私にコーヒーをおごってくれた。」と言ったのではないかと思います。300円位だしロシア語も英語もしゃべれないので私は特に抗議しませんでした(笑)。


(地下鉄)
昼前にチェックアウトして、地下鉄で日本大使館へ向かいました。地下鉄各駅の入口には拳銃を持った警察官とマシンガンを持った兵隊が立っており、ウクライナ情勢で警戒が厳重なのがわかりました。私は声をかけられなかったのですが、中東系の人には職務質問をしてパスポートを確認していました。しかし多くの警察官が帽子をあみだにかぶっていたのがちょっと気になりました。
後で通訳に聞いたのですが、軍隊は今も徴兵制だが、昔は3年(海軍は4年)の徴兵制であったのが、今は1年だけの徴兵制となり兵隊の質も落ちたと嘆いていました。
(エスカレーター)
エスカレーターの各下には人の動向を監視する小部屋があり、中でおばちゃんが監視カメラを見ていました。後で通訳の方に聞くと、監視の仕事は賃金が安いので担当は100%おばちゃんだと言っていました。エスカレーターは80m以上あり、長くて日本より少し速度が速かったです。しかし身障者や老人用のエレベーターがなかったのが残念でした。
通訳の話では、以前西ドイツからきた90歳の観光客がエスカレーターで足を滑らせて転倒し、大ケガをされたようです。
(道案内のお願い)
地下鉄は方向がわからず、また英語表示はなく全てロシア語なので、私は持っていた地図を指し示し方向を聞くと、みんな親切に教えてくれたので「スパシーバー(ありがとう)」を連発しました(笑)日本と同じで、親切な人、不親切な人、愛想のいい人、無愛想な人、色々な方がいます。
(白タク乗車)
駅の改札口を出て、立っていた兵隊と警察官に日本大使館の場所を聞いたのですが、不愛想に知らないと言うし交番もないので、駅前にいた「TAXI」のカードを持った男に聞くと、男はすぐスマホで検索し、1000ルーブルを要求してきました(1ルーブルは約3円で計算)。事前に日本大使館は駅から近いのが分かっていたので私が500ルーブルと言うと、結局600ルーブルで話がつきました。400ルーブルと言えば500になっていたかもしれません(笑)。タクシーに乗ると白タクで、駅から数分で日本なら800円で行ける距離の日本大使館に着きました。

(日本大使館)
日本大使館に着くと、大阪豊中のロシア領事館と同じく、警察官が2人立っていました。
受付でパスポートを渡し、待合室で待っていると、いつもメール交換をしていた職員の方が来ました。お土産の日本のお菓子を渡し彼と約20分お話をして大使館を出て、今度は職員に教えてもらった別の駅までは歩いて行きました。

(赤の広場) 夜のタンボフ行き飛行機の離陸まで時間があったので、赤の広場を見学しましたが、広場では軍楽隊の演奏や小銃の操作方法など軍隊の催しをしていました。プーチングッズのコーナーもあり、つい衝動的にプーチン写真のTシャツを1200ルーブルで買いましたが、後で冷静に考えれば高い買物をしたものです(笑)。観光客は沢山いましたが東洋人のほとんどが中国人で、結局モスクワ・タンボフ旅行中に日本人に会ったのは大使館の2人のみでした。
(タンボフ行き飛行機)
そして20:30発タンボフ行きのプロペラ機に搭乗しました。空港内で飛行機まで行くバスに乗る時、バスの写真を撮ろうとすると係員に止められました。私は写真が好きで旅行期間中デジカメで650枚撮りましたが、止められたのはその1回のみでした。

(露日協会タンボフ支部長との出会い)
22:00モスクワから南東約400kmのタンボフ空港に着きました。タンボフ空港は売店もないローカル空港でした。到着するとメール交換をしていた露日協会タンボフ支部長53歳と娘さん17歳と彼氏18歳の3人が迎えに来ていました。そこで初めて分かったのですが、タンボフ支部長は日本語と英語が全く理解できない人だったのです。娘さんを連れてきたのは、スマホで日本語案内ができるためでした。事前に日本語はOKと聞いていたので、私は彼に日本語でメールをしたのですが、彼の返事は遅く、またトンチンカンな返事しかこなかったのは、彼は私の日本語メールをほとんど理解できないグーグルで翻訳していたからです。しかし、ネットで知り合った神戸外大ロシア語学科の教授に助けをもらい、支部長にホテルの予約など大事なメールをしてもらうと直ぐに彼は返事をくれました。教授は、親父が載ったロシア語記事も、21年前の1993年(平成5年5月)の内務省公報に警察官僚が書いた記事だということも調べてくれました。


(タンボフのホテル) タンボフの宿泊先のホテルはタンボフ州庁舎の横にありました。ダブルベッドの部屋でモスクワと同じくきれいな部屋でした。テレビチャンネルは、モスクワは32チャンネルでしたが、タンボフは55チャンネルもありました。お国柄か第二次世界大戦の戦争映画が多かったですし、プーチン大統領も画面によく出てました。なお夜中2時半に目が明きチャンネルを回していると39チャンネルでソフトヌードの無修正ムービーが放映されており、素敵なロシア美人に目が覚め寝不足になりました(笑)。 【9月4日】


(映画会場)
会場前には私の父の写真が掲示していました。私がメールで送った写真を高さ1.7mの大きな看板に編集されていました。会館の要望で9月中写真を掲示するそうです。
会場入口ホールで私と68年前の父の写真を送ってくださったエミリヤさん(78歳)との出会いのセレモニーをしていただき、彼女に渡す花束は露日協会が用意してくれていました。日本映画祭開催のため地元テレビ局などが来ており、支部長と参事官がインタビューに応じていました。私とエミリヤさんの出会いのセレモニーと映画祭のことは翌日のタンボフインターネット記事などに写真入りで大きく掲載されました。


(エミリヤさんの話) 参事官に通訳をしてもらいエミリヤさんにお話しを聞くと、 彼女が私の父と出会ったのは1946年(昭和21年)8月初めから約2週間だったそうです。 父の記録では、ロシアでの捕虜抑留生活は終戦後から2年間で最初の1年間はタンボフから北100kmのマルシャンスク収容所にいました。森林伐採の厳しい労働をし、食事も満足でなかったので30kg体重が痩せ、仲間もたくさん亡くなったそうです。タンボフにいたのは、後半の1946年7月28日~1947年8月28日の1年間で、タンボフへ行った直後にエミリヤさんらと2週間だけ交流があったことになります。 当時、タンボフには他の国の捕虜もいたそうですが、だらしのない兵隊が多く、その点、日本の兵隊さんは礼儀正しく勤勉で明るくて友好的であったので、エミリヤさんらは強烈な印象として記憶に残ったそうです。 そして父と出会ってから2週間後の父らが別の場所へ移動する別れの日の1946年8月17日にエミリヤさんは父から写真などを記念にもらったそうです。 もらった写真を今になって親族に返す気持ちになったのは、日本の方なら写真を大事にしてくれると思い、数年前から父を捜していたそうです。 なお21年前、内務省公報に父のことを書いてくれた警察官僚は既に亡くなっている とのことでした。エミリヤさんの御主人も既に亡くなり子どももいなく、現在は独居老人でした。 後で通訳に聞いたら、ロシアのペレストロイカ時代の平均寿命は男性59歳、女性75歳とのことでした。男性の平均寿命が短いのは、ウオッカの暴飲もありましたがペレストロイカなどでストレスが多かったのも一つの原因だと言っていました。 会場にはエミリヤさんの甥が一緒に来ていましたが、タンボフでは有名な脳神経関係の医者でした。エミリヤさん自身も病院で細菌の研究をしていた方で、研究の細菌が彼女の身体に悪いので警察病院へ行き、以後内務省医療部の管理職として事務の仕事をしていたそうです。

(挨拶と映画上映)
日本映画の上映を始める前に私が壇上に立ち最初だけロシア語でお礼の挨拶をして、その後は私が日本語で言ったのを支部長がメモを見ながらロシア語で説明してくれました。
ズドラーストヴィチェ ダラギーエ ドゥルズイヤ!(みなさん、こんにちは!)
ミィニャ ザヴゥートゥ シミズミチオ(私は志水通男です)
ヤ イズ イポンスカバ ゴーラダ コウベ(日本の神戸から来ました)
私の後に参事官が日本大使館の代表として、ロシア語で挨拶をされて日本映画の上映が始まりました。その日の映画は、50年前の東京オリンピック時代の下町を描いた「always三丁目の夕日64」でした。ロシア語字幕で上映しましたが、笑い声も聞こえ観客の反応も良かったように思いました。観客は約120人で、平日なのに何故か若者も多かったです。

(夕食)
夕食は宿泊先のホテルで露日協会の方4人と参事官そして私の6人でしました。ワインで乾杯し、スープ、トマトサラダ、ジャガイモ料理、豚肉料理とパンを食べましたが、どれも日本人には合う味で、とっても美味しい料理でした。
(交換留学の話)
会食の中でタンボフ支部長が、
「タンボフは90%が純粋なロシア人のため、純粋なロシア語を話します。以前、タンボフには日本語を教える人が一人いたのですが、今はいないそうです。タンボフは大学もあるので交換留学してくれる日本人がいたらいいのだが」
と、切に希望していました。
【9月5日】
(タンボフ観光)
翌日の午前中、支部長の案内で参事官と一緒にタンボフ市内の教会などの観光地や元捕虜収容所を回り、昼食後、参事官はモスクワへ帰るためタンボフ空港へタクシーで向かいました。
(エミリヤさんと映画鑑賞)
夕方にまた映画会場でエミリヤさんらと会い、一緒に北海道のパン屋さんの映画を見て交流を深めましたが、彼女は私が元警察官なので親近感をもったそうで、映画上映中は手をつないでいました。エミリヤさんが連れてきた19歳の女子大生が日本語の通訳をしてくれましたが、彼女の日本語と英語能力は私の怪しげな英語能力と同じ位で、なかなか意思疎通ができず苦労しました(笑)。 私は女子大生に、持参した中古の日英電子辞書をプレゼントすると、とても喜んでくれました。


(タンボフ駅で夜行列車に)
エミリヤさんと別れた後、22:49発のモスクワ行き寝台列車に乗るため、午後9時前に支部長夫妻の案内で国鉄タンボフ駅に行きました。2時間も待ってもらうのは気の毒なので、日本大使館の職員に電話して支部長に先に帰ってもらうよう説明してもらったのですが、支部長夫妻は出発まで駅に一緒にいてくれました。列車に入ると、国内なのに、また女性係員にパスポートの提示を求められました。別れの挨拶で列車内から私が手を振ると、ホームに立っている奥様が投げキッスをしてくれたのは感動的でした。寝台列車は4人部屋で他の3人は女性で既に寝ていました。おばちゃん2人と娘さん1人で私も安心して寝ることができました(笑)。
【9月6日】

(モスクワ到着) 翌朝07:20モスクワの駅に到着し、初日に泊ったホテルへ行き、スーツケースだけ預けました。通訳の方とは午後1時に会うため時間があったので、近くの自然公園を散策しました。 (有料トイレ) 公園へ行く途中、地下鉄駅の近くにある移動式臨時トイレに入ったら30ルーブルとられました。少し離れた所は20ルーブルでした。後で通訳に聞くと1年前は10ルーブルだったのがインフレで値上げになったみたいです。 (通訳) 午後1時にホテル玄関で8時間契約の通訳の方とお会いしました。通訳のほとんどが女性と聞いていたのですが、会うと70歳の男性通訳でした(笑)。 通訳の彼はモスクワ大学日本語学科卒業で、現役時代は公務員だったそうです。奥様と一人娘さんはジャーナリストで、16歳の孫娘は今年の春に飛び級でモスクワ大学に入学し、ジャーナリストの勉強をしている優秀なお孫さんでした。 彼はいきなり、「しみずさん、あなたは元警察官ですね。私は元KGBです」と言ったので、私は「はい、日本の元KGBです」と切り返すと、彼は「冗談ですよ」 と笑っていた。

(通訳の観光案内)
午後2時にチェックインしてシャワーを浴びた後、通訳に観光案内をしてもらいました。
地下鉄に乗りましたが、彼は70歳のため地下鉄は無料でした。地下鉄構内の観光コースや寺院などを見学した後、私が希望していたジャズライブの店に行くのは時間が早いので、彼は自分のアパートに案内してくれました。

(通訳の自宅訪問) 彼の部屋は古い5階建ての5階で、窓と玄関は2重になっていました。案内してくれたアパートは彼が通訳の仕事をするために借りた部屋でした。奥様と娘さんは別荘へ行っており、現在は一人で日々を過ごしているそうです。彼は知人と1時間ほど用事で会うことになり、私は一人で彼の部屋で彼が買ってくれた缶ビールを飲みながら留守番をして、一般家庭の部屋を見ることができ貴重な体験をしました。さすがモスクワ大学卒なので部屋は本だらけでした。義母に本を買うより妻に服を買ってほしいとよく言われたそうです。 (ジャズライブ) 午後7時30分にジャズライブの店に案内してもらいました。通訳の彼は翌日日本人団体さんの一泊旅行の通訳の仕事があり朝が早いというので、8時過ぎに先に帰ってもらい、私は9時までジャズライブを楽しみました。ライブは神戸北野のジャズライブ店と変わらず、上手な演奏と迫力ある女性ボーカルで、料理も美味しく、とても良い店でした。 勘定は二人分を支払ましたが、日本相場と同じ位の約8500円で3000ルーブルを払いましたが釣りはくれませんでした。帰国して知人に聞くとそれはチップ代とのことで納得しました。 【9月7日】 (モスクワの空港へ) 昼前にホテルをチェックアウトしましたが、疲れていたので観光はせずそのままシェレメチェボ空港へ行き、空港内で時間をつぶしました。 (喫煙率) 通訳の話では、ロシアの男性70%女性40%が喫煙者だそうで、建物や駅前には吸殻入れがありましたが、ロシアの空港には全く喫煙場所がありませんでした。また街で買っても安い煙草(約150円)を土産用に買いたかったのですが全く売っていませんでした。 そして19:55発の大韓航空でロシアを離れました。 【9月8日】 (帰国) 翌朝09:15韓国インチョン空港に着き、6時間の時間待ちをして、17:05関空に到着しましたが、緊張感が解けて疲れがどっときました。そして高速艇で神戸港へ帰り、駐車していた自家用車で帰宅しました。 3 あとがき 日本大使館の職員の話では、ロシアは 政治的には日露関係は非常に良好とは言い難い面もありますが、現在のロシアの 人々の一般的な日本人像は 「親切で、礼儀正しく、勤勉」 であり、日本文化に関しても大変興味があり、尊敬の念すら持っている とのことでした。 たしかに今回、私もタンボフへ行き関係者の方々の暖かい歓迎を受け、ロシアに対する親近感を感じました。折角の縁ですから、今後はロシアに関心を持ち、ロシアとの友好に努めたいと思いました。
