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  • 執筆者の写真Masato M. Lyagushkin

一般社団法人 丹波・タンボフ交流協会 会報2号(発行日:令和5年7月14日)

一般社団法人 丹波・タンボフ交流協会 会報2号(発行日:令和5年7月14日)  丹波市民の皆様、平素は、当協会の活動にご理解、ご支援をいただき心より感謝申し上げます。  令和5年4月8日に丹波市柏原住民センターにて令和5年度定時社員総会を開催することが出来ました。これは、平成30年6月に当協会を設立し、令和4年3月に一般社団法人化してから初めての社員総会となり、自由闊達な意見交換の場となりました。社員・会員の皆様のご意見を踏まえ、当協会の活動を定期的にご報告するための会報を発行することと致しました。

会報の要旨は、丹波、タンボフで活躍されているアーティストの方々の活動、当協会の活動を報告すると同時に、丹波、タンボフ両都市の背景にある日本と東欧のスラヴの伝統、文化、風習などをご紹介させていただきたいと思います。多様性のある興味深い異文化の多角的な紹介を通して、皆様のご理解がより深まるような会報にしたいと考えております。

今後とも宜しくお願い致します。

一般社団法人 丹波・タンボフ交流協会 代表理事兼会長 河津 雅人

記憶と鎮魂  丹波・タンボフ交流協会設立のきっかけを作ってくださった3名―志水通男さん(現・当協会社員)、エミリヤ・エルマコヴァさん、フェドートフさん(現・当協会副会長)の出会いは平成26(2014)年9月に遡ります。志水さんは、日本大使館が協賛する第4回タンボフ日本映画祭に来賓としてタンボフに招待され、参加されました。  タンボフ訪問の経緯は、志水通男様が書かれたエッセイ「ロシア連邦一人旅顛末記:亡き父の足跡を訪ねて」を以下のリンクの当協会サイトのブログでお読みいただけます。 [https://www.tamba-tambov.com/post/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%80%A3%E9%82%A6%E4%B8%80%E4%BA%BA%E6%97%85%E9%A1%9B%E6%9C%AB%E8%A8%98-%EF%BC%88%E4%BA%A1%E3%81%8D%E7%88%B6%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%81%A6%EF%BC%89]  今回は、2014年にエミリヤ・エルマコヴァさんがタンボフ市で出版された『人生:それはいかに私の中でつくられたか(Жизнь: как она у меня сложилась)』という自伝(写真)の中で、志水さんのお父様・實一さんとの交流の記憶、その息子たる志水通男さんとの「再会」の感動を著されていますので、一部を和訳して皆様にご紹介したいと思います。

「私の子供の頃を振り返ってみると、日本人捕虜の皆さんとの興味深い記憶が蘇ってくる。それは戦後、1946年のことです。当時、私が両親と住んでいたタンボフ市のコムナーリナヤ通りにある第34棟に昼休憩の時間、日本人抑留者の方々がおられました。彼らは用水路を掘り、ケーブルを敷設されていました。ソ連の警護兵はおられませんでした。彼らは1時間休憩した後、作業の続きに戻っていきました。一方でその休憩の間、日本人抑留者の方々は輪になって座り、日本の歌を歌ったり、のんびりとした談笑をされていました。彼らはいつも地元の子供たちに囲まれ、幼かった私もその一人でした。当時は戦後まもなくで、子どもたちは極東戦線で亡くなった親族や兵士として亡くなった父親たちの名前を想起していたの事実です。しかし、私たち子どもたちも、自分の両親たちも、日本人抑留者の方々に対して悪意を持ったことは一切なく、むしろ不憫に感じていました。私たちタンボフ市民にとっても当時は食べ物が手に入らず、配給制の時代でしたが、私たち子どもたちは日本人抑留者の方々に塩をまぶしたパンの切れ端、皮付きのじゃがいも、アンチョビの魚を持っていっていました。当時、私たちも同じ食事をとっていました。日本人抑留者の方々は自信に満ち溢れ、立派に振る舞っていました。私たち子どもたちだけでなく、大人たちも日本人抑留者の方々に関心を寄せていました。私と3人の友達が日本人抑留者の方々とよく遊んでいました。特に仲良く交流していたのが志水實一さんでした。お会いした当初は、ジェスチャーで意思疎通を図っていましたが、のちにタンボフ州教育大学の学生で英語が話せる方が私たちの『通訳』になってくれました。何人かの日本人抑留者の方々は英語が話せたので、その後はとても『生き生きとした交流』ができました。彼らとお別れするときに、實一さんは私たちに写真(添付)をプレゼントしてくれました。写真の後ろにはロシア語で私たち4人の名前が書いてありました。友達と話し合い、私がこの写真を預かることに決めました。それから今日までこの写真を守りつづけました。

 長い月日をかけて實一さんの写真を親族の方にお返しする機会を探していました。それは親族の方々にとって實一さんの『記憶』は非常に大切なことだと思ったからです。2014年にロシア・日本協会のご協力を得て私の長年の夢が実現しました。實一さんの長男・通男さんにお送りすることが出来、彼から感謝の手紙をいただきました。

ロシア・日本協会タンボフ支部長フェドートフさん(現・当協会副会長)と、在ロシア日本国大使館のご協力の下、2014年9月に志水通男さんがタンボフに来られました。タンボフ州郷土博物館で通男さんと私やタンボフ市民との面会の為に式典を開催してくださいました。志水通男さんはフレンドリーで人当たりの良い方でした。私たちはお互い記念品をお渡ししました。實一さんが日本に帰られて、ビジネスで成功され、その後の人生が平穏無事であったとお聞きしました。2012年に91歳で逝去されたともお聞きし、哀悼の意を表したいと思います。」  以上のように、エミリヤ・エルマコヴァさんは自伝の中で、子供の頃の志水實一さんとの交流の記憶、そして息子の通男さんとの記憶を通した『再会』を綴られています。(添付写真)

 シベリア抑留は、事実として日本兵や民間人の日本人捕虜が非人道的に非常に劣悪な環境下で強制労働を強いられました。しかし、エミリヤさんの自伝からも読み取れるように、①抑留はシベリアだけでなく、ソ連全地域に及んだこと、②抑留された地域や場所によって様々な環境の違いがあること、③日本人抑留者と地元の人々との交流があったこと、④ソ連の地元民も飢餓状態にあった地域が戦後あったこと、も同様に視点を向けなければなりません。  そして、エミリヤさんは最も重要なタンボフでの「記憶」として、捕虜として抑留を強いられても日本人は日本人としての「矜持」を保ち続けたこと、そのような日本人の立ち振る舞いに呼応するかのように現地のタンボフ市民たちも、たとえ親族に日本との戦いで亡くなった人がいたとしても、日本人抑留者に対して悪意を持つことが一切なかったこと、むしろ不憫に思い、自分たちに配給された少ない食料を日本人抑留者たちに分け与え、日本人との交流に大きな関心を向けていたことを、後世の私たち日本人・ロシア人の未来の為に書き残してくださいました。

エミリヤさんは、志水實一さんの息子・通男さんに出会え、彼女と實一さんの大切な「記憶」が詰まった写真を通男さんに渡す使命を果たされたかのように、2019年9月26日に83歳で逝去されました。ご冥福をお祈りいたします。 タンボフ便り «Любовь из Тамбова»

[タンボフ日本人捕虜慰霊碑、左:フェドートフさん(当協会副会長)、右:小柳記者]  今年3月24日、フェドートフ副会長は東京新聞モスクワ特派員の小柳悠志さんと面会し、タンボフの国際墓地にある日本人捕虜慰霊碑を訪れ、菊の花を慰霊献花しました。1946年から1947年にかけて、タンボフ州内には3,722人の大日本帝国陸軍捕虜と454人の日本人抑留者がいたと記録されています。タンボフの日本人捕虜慰霊碑は2017年3月2日に日本国外務省の尽力で建立されました。この国際墓地はタンボフ市郊外の静かな森の中にあり、日本のみならず各国の慰霊碑が立ち並びます。抑留者、捕虜としてこの地で亡くなった魂は、今は静かにこの墓地で眠っています。  また、3月28日には上月豊久駐ロシア日本国特命全権大使公邸でのレセプションパーティーにフェドートフ副会長が参加し、上月大使夫妻と歓談いたしました。


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住所:〒669-3411 兵庫県丹波市春日町朝日1094番地1

公式サイト: https://www.tamba-tambov.com メールアドレス: tamba.tambov.association@gmail.com 公式YouTubeチャンネル: https://www.youtube.com/@masatolyagushkin

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